世界一周よしブログ

30歳を超えて、2011/3/16より2年1ヶ月56カ国世界一周バックパッカーの旅で「今日のコーラ」と「今日の美女」を撮りました。

負の世界遺産オシフィエンチム アウシュビッツ収容所を訪ねて思ったこと

初めてFootball スタジアムに入りました。

 

 

サン・シーロスタジアム!!!

 

 

ミランインテルのホーム!!ばっちりツアーで博物館からロッカールームまで見てきた♪

最高(ノ´▽`)ノ

詳細は後ほど。

 

 

 

 

 

 

ポーランドクラクフからバスで行けるところに負の世界遺産があります。

世界史の中で必ず習っているし、その悲惨さはわかっているつもりでいました。

例えばアンネの日記などで。

その現場にいくまでは。

 

 

 

オシフィエンチム。またの名をアウシュビッツ収容所。

 

 

 

第二次世界大戦の中でもっとも悲惨な強制収容所。殺人工場。

ユダヤ人、ポーランド人、ロマ、共産主義者、反ナチス活動家、同性愛者が収容され、死ぬまで労働させられたり、即座に殺された場所。

150万人以上が殺された恐ろしい場所。

 

 

詳しくは調べればいくらでも出てくるのでそういう説明なしでただ自分が感じた事を列ねていきます。

 

 

 

 

 

 

この入り口をくぐればそこは地獄の入り口。

この「ARBEIT MATCHFREI」働けば自由になるのこのスローガンが掲げられたゲート。

せめてもの皮肉がこめられ、Bの文字が上下逆になっている。

 

 

 

 

高圧電線があり、脱獄できないようになっている。

 

 

 

 

 

 

もの凄い数の人々がただただ殺された。同じ人間なのに。ただ人種が違うだけなのに。

 

 

 

 

着いた途端に医者という名がただついた人間に2つの人間に分類される。

労働力あるものとそうでないもの。

主に子供、妊婦、老人がそう。

そのものたちは上記模型のようにまず服を脱がされ、熱いシャワーを浴びさせられた。

これはただ単に浴びたわけではない。

毒ガスがより浸透しやすくなるよう、体温をあげさせた。こうすることで20~30分で死にいたる。

 

 

 

 

 

 

これはその毒ガス缶の山。当時使われたままのもの。

 

こんなものを何故作ったのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここに連れて来られた犯罪者以外の人は楽園がここにあると信じていた。

だからここで新しい生活をするために大切なものを持ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無数に集められた眼鏡、木綿の服、義足義手、食器、生活用品、靴、それらを詰めてきたカバン。

遺体からは金になるもの、もちろん金銀歯もすべて抜き取られた。

そして写真撮影は禁止されているし、撮りたくもない、現実。

ガス室に連行される前にみな髪を切られた。特に若い、髪の長い女性の髪は重宝された。

なぜならその髪で絨毯や織物を作っていた。

 

そんな髪が一室に集められていた。何十トンとある髪が・・・。

なぜ、そこまでひどい事をするの?

 

 

 

 

 

この左の塔では名前は忘れたが一人の医者が権力の元に若い女性ばかりを集めて人体実験、そしてひどい事をしていた。

 

 

 

 

 

その横には銃殺刑の壁が今でも残っている。

花はいつも新鮮なものが献花されている。

 

 

 

 

 

 

こんな狭い部屋に何十人もの人が厳しい夏、冬を過ごしていた。

労働者の多くの亡くなった方の写真があったが、年齢はみな様々だが1ヵ月後、または長い人で1年後に亡くなっていた。

ある衝撃的な写真が目に焼きついた。その女の人の入所前と3ヵ月後の写真。

入所前はふくよかな体重60キロの人がたった3ヶ月で32キロの体重に。

もう目を覆いたくなるような、とても30代の人をは思えない写真だった。

 

その他の写真もみなわずか短期間で体重がものすごく減ってガリガリの骨と皮だけの写真。

12時間労働に加え、食事とよべないほどの朝と夜だけのご飯。労働は過酷を極めた。

そんな環境、人として扱われない事が極限までに痩せさせ、人を死に追いやった。

どうしてここまでヒドイ事ができるのだろうか?

 

 

 

 

 

そして動けなくなったもの、つまりは死を迎えたものを同じ仲間に運ばせ、ここであたかもライン作業のように24時間稼動で遺体を燃やした。

火葬場は4つあったが常にフル稼働しなければ追いつかなかった。

それほどまでに人を殺してきた。

 

 

もうここまで見学して正直人間ってなんなの?って思った。

感情がなくなるとこうまで残酷なことができるのかと。

それともやらなければやられるの精神で慣れてしまったのか?

誰も止めることができなかったのか?

 

 

そしてモウ一つのアウシュビッツ。第二アウシュビッツ

ビルケナウ。

 

 

ここはものすごく広大な土地に転々と建物が残っている。

ここもソ連軍が開放するまでに数百万人の命が奪われた場所。

 

 

 

 

 

 

みな電車でこの死の門と呼ばれるゲートをくぐってきた。

 

 

 

 

 

 

そしてホームに降り立つと先に述べた選別が始まる。

今その場に自分がたっているのが恐ろしく感じた。

もし産まれてきた場所、時代が違えば、ここに自分も立っていたのかもしれない。

その先の地獄をまったく理解してない状態で。

 

 

 

 

 

ここに各国の亡くなった方の追悼で各国の言葉で慰霊碑が建っている。

 

 

 

 

この破壊された建物は火葬場。

いったい何人の人がここでただ燃やされたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけのただ狭いバラックに300人の人が生活していた。

一人に与えられたスペースはただ横になれるだけのもの。

厳しい夏、冬に加え、十分でない食事と過酷労働。

それは紛れもなく命を刻一刻と削っていったんだろう。

 

 

ただ文字でしか習っていなかった事実。

この目で、耳で感じたことは一生忘れないだろう。

この悲惨な出来事、場所を。

 

 

なぜ人間はいとも簡単に人を殺せるのか?

 

 

もう2度とこのような悲惨なことを繰り返さないで欲しいと願います。

戦争という愚かな争いを・・・。

 

 

 

 

「今日のコーラ」

・二度とこんな事があってはならないと思う。