イグアス居住地の移民とは?その過酷な歴史とは?
短くてもコメントがあるとうれしいです♪
イグアス居住地。
ここは旅人の間では日本を感じられる場所として有名なんです。
ここで有名な日本人宿
ペンション園田。ここは日本人の間で有名な居心地のいい宿。
イグアス居住地って何?
そもそも移民って何?って状態だったので、そこを知らなければここに来た意味がない!!
いや、日本食食べれるのだけでも意味はあるんだけど・・・・(笑)
ここのペンション園田のおじいちゃんに日本人会館に連れて行ってもらいました。
移民とは。
第二次世界大戦より前に始まった南米への移民。
最初はブラジルからはじまり、その後、ブラジルへ移動した日本人の手によってパラグアイへの移民政策が始まりました。
それは1936年から始った。
そしてその後第二次世界大戦後、本格的に増えてきたと。
当時どんな人が移民としてやってきたかというと・・・。
第二次世界大戦敗戦後、引揚者として日本に帰ってきたが、当時の日本はまだ敗戦後で職もなく、食べ物すらままならない状態で日本で住むことができなくて、政府の甘い、理想郷があるという言葉でつれて来られた人。
エネルギーがディーゼルからガソリンに移行した事により、日本に数々あった炭鉱、特に福岡、高知、兵庫などの人々が新たな仕事を求め、新天地に移動してきた人。
みんな移民としてきた人はそこに新たな新世界、夢と希望を持って、都会にくる感じできたそうです。
船で2~4ヶ月かけて・・・・。
パラグアイへの移民はブエノスアイレスから列車でエンカルナシオンにまず着いたと。
そこから車で移住地に移動したのだが、そこはちゃんとした土地ではなく、原始林に覆われた、ただの赤い土の道路があるだけの世界。
移民の人達は土地、家が用意されているわけではなく、すべて0からスタートしたと。
木を切り倒し、野焼きし、土地を更地にし、木を組み合わせ、ヤシの葉で屋根を作り、やっとのことで小屋を建てて住んだと。
それはそれは日本で暮らした方が何倍もマシな生活。
衣食住すべてない状態から初まった生活。
それは想像も絶する過酷な生活だったそうな。
それでもみんなで力を合わせてその土地、家を作っていたんだと。
作ったこともない家を、木と切り倒し、組み合わせ、協力して。
だが時に、貧しい生活は強盗、殺人という事件もコミュニティー内で起こっていたと。
そして次にに移民の方達はこの赤土で農作物を作り始めたと。
最初はなかなかうまくいかなかったけど、だんだんとできるようになった作物。
最初は現地のパラグアイの方にも受け入れられなかったモノがだんだん日本人の礼儀正しさ、謙虚な姿勢、誠実な対応により、パラグアイの人々にとって日本人は特別な存在になっていた。
それは第二次世界大戦でパラグアイが連合軍について、日本と国交断絶しても今までの日本人の評価により、移民の方々は責められる事はなかった。
そうして始った移民。
日本では日系人と呼ばれるているが、現地の人はその呼び方を嫌う。
彼らはれっきとした日本人。
花嫁候補として行った子が船の中で別の人に恋に落ちるということもあったみたい(笑)
でもそうして、2世代目、3世代目として引き継がれ、パラグアイの農業、経済と引っ張ってきた移民の方々。
日本の文化などを通じて、パラグアイの人々と交流をし、信頼を築き上げた人々。
日本の組合の依頼により、苦労して作った作物は傷がある、品種的に合格点でないとつき返し、受け入れなかった日本。
同じ日本人なのに・・・。
でもこの作物はパラグアイの人々に受け継がれ、野菜をとらなかったパラグアイの人々に野菜の文化を広めた。
道路も整備され・・・・・。
JAICAの方の支援により、発展し続け・・・。
教育機関、市役所など行政区間も整備され、今のイグアス居住地があります。
大して知識のなかった移民についての事。
初めの人がどれだけ苦労したか。
日系人として学んできた人々の本質を知ることができました。
それだけでもココに来た価値がありました。
ここに書いた事により、読んでいる方にも移民について少しでもわかっていただけたらと思います。
これなんだと思います?ガラス切る工具なんだけど先端は・・・・。
ダイヤモンド!!!(笑)
これは饅頭用の・・・・・おたふくもいるよ!!!(笑)
さて、今回はマジメな記事を書きましたが、次回は日本食特集!!!(笑)
飢えた旅人のみなさん!ごめんなさいw
「今日のコーラ」
・変わったコーラ発見!!